岡田斗司夫「オタクはすでに死んでいる」(新潮新書)
今年9冊目
世の中で、オタクというものが肯定的に見られはじめたと同時に、「純粋オタク」が消滅したという話。
これは、確かに前から薄々気づいていたことだけど、岡田斗司夫がうまくまとめてくれた。
オタク的見方、たとえばアニメの作画がどうとか、このシーンはここのパクリだとか、特典が違うだけのDVDセットを毎回買ってしまうとか、食玩ほしさにケース買いするとか、そういうオタク的行為は一般化しつつある。
子ども向け番組を大人が見ることも抵抗ない。
柔道の井上康生は「我が柔道人生に悔いなし」と記者会見で言ったが、これは「北斗の拳」の羅王の台詞(あとでワイドショー見たら本人も認めていた)。
一流のスポーツ選手が、引退の記者会見で、アニメの台詞をパクルなんていうことは、昔では考えれなかったはず。
ところが、こんな風にオタク的行為が広まるとともに、本来オタクが持っていた共同体意識が薄れている。
ぼくらの頃は、美少女アニメが好きでなくても「トップをねらえ」は義務で見るべき作品だったし(見たら面白かったけど)、際どいところでは「くりぃむレモン-ポップチェイサー」まで見た。
(実は、庵野秀明が関わっていたことは最近知った)
ジャンルを超えたオタクの連携もあった。
特撮8mm映画を作っていた頃、Nゲージのジオラマ経験者が大活躍だった。
そのほか、東海道線の全駅を暗唱できる芸を持ったやつがいて、去年、同窓会で30年ぶりに聞いた。速度は落ちていたものの、記憶は確かだった。
最近は、ジャンルの違うオタク同士は一緒に遊ばないらしい。
それから「義務で見るべき作品」というのもあまりないらしい。
何しろ「自分の気持ち至上主義」なんで。
たとえば喫煙の習慣は世界中に広まったものの、宗教儀式としてのタバコの利用は消えたのと似てる(とは書いてないけど)。
オタク文化は、以前のような特定のコミュニティとしては死んだが、その一部だけが抽出されて社会全体に広まったと考えるのが自然ではないか。
そうすると、ぼくの周りの人は「アイヌ語をしゃべる最後の人」みたいな扱いか。
ずっと迫害されてきたことも似てる。
(いや、これは冗談。アイヌの迫害に比べればオタクの迫害なんて実害ゼロです)
ところで、タイトルはもちろん「北斗の拳」のパクリだが、そんなことはどこにも書いてない。
この程度のオタク的知識は常識となったからだ。
なかなかうまいタイトルだと思う。
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